私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。京都にある中央仏教学院(通信専修課程)と東京都中央区にある築地本願寺の中にある東京仏教学院(本科)を終了し、2022年に京都にある西本願寺で「得度」という手続きを経て僧侶になりました。私自身はお寺の出自ではないので、実家が代々お世話になっている宝泉寺(山口教区美祢西組)に所属させてもらっています。

現在も東京で広告会社の社員を続けながら、僧侶として横浜市あざみ野にある西勝寺のお手伝いをしつつ、今年行政書士としての仕事を始めようと考えています。

プロフィール記事も投稿していますので、よろしければご覧ください。

ということで、このブログには行政書士の仕事の範囲である法律にかかわるテーマに加え、私が学び続けている仏教の考え方や歴史についても書き記していこうと考えています。

最初は、『仏教ってどんな教えなの?』というテーマから始めたいと思います。

実は「仏教とは何か」に答えるのはなかなか難しいです。答え方が複数考えられるという意味です。ここでは、私が最初に仏教を専門的に学び始めたときの教科書に沿って説明していきます。

「仏教」という言葉の意味は?

私が最初に学んだのは、「仏教」という言葉の意味を考えるというものです。これには3通りの説明の仕方があって、

①仏による教え・・・お釈迦さまの教え

②仏という教え・・・法(真理)の教え(注1)

③仏になる教え・・・仏の悟りを得る教え

という説明です。皆さんにはどの説明がしっくりきますか?どれも当たり前だと思われるかもしれませんね。

『仏教はお釈迦さまが2500年前にインドで開かれた宗教で、お釈迦さまが発見した(悟った、覚った)人間の苦しみの原因と対策に関する真理(真実の智慧)を、その時代のインドの人々に広められたものがアジアをはじめ世界に広がったんでしょ』と言われる方も多いだろうと思います。

その通りです。ですが、仏教を学ぶ僧侶が最初に「仏教」という言葉はなんであるか、を学ぶのにはちゃんと意味があります。

結論から言いますと、仏教の教えは①②③が混然一体となっていると受け取るべきで、どれか一つの見方では終われないということです。

わかりにくくて恐縮ですが、①はお釈迦さまという一人の歴史上実在の人物を中心においている立場です。

そのお釈迦さま釈迦如来・釈迦牟尼仏)は、人に苦をもたらす道理(真理のメカニズム)を発見されたことで「仏」となられたので、発見された内容である②「真理(法)」という立場が前提となります。

お釈迦さまは、ご自身で悟られたその真理(法)をご自身のために使われるだけでなく(注2)、当時のインドの「衆生(有情)」(一般の生活者)をお救いになるために、35歳で悟られてから80歳でお亡くなりになるまでの45年間、その教えを伝道し続けられました。つまり、その教えは、人々を苦しみから救う(悟り・悟りに導く)ことを目的にされたという立場③であるということです。

僧侶は歴史学者でもなく、仏教学者でもなく、マインドフルネスのインストラクターでもありません。①②③のどれか一つの立場に偏ってしまうと、それは僧侶なんだろうかと疑問に思うべきだと、私は理解しています。「僧侶というのは資格ではなく、人としての生き方です」と僧侶になる得度式でいわれたことを覚えています。

少しめんどくさい理屈に聞こえるかもしれませんね。法律に携わる仕事もどこか共通するものがあると考えています。

法律は論理(ロジック)で構成されています。言葉の定義も厳格ですし、法の解釈に多様性があったのでは安心して生活ができません。しかし、厳格に法を解釈することが法の目的ではありません。法の目的は社会生活の安定と円滑化です。なのでひとり自分勝手に都合よく法を解釈し使ってはその目的が達成できません。法を運用する私たち法律家は、法の論理という立場順法(遵法)という立場手段としての法という立場、どれか一つの立場に立っていればいいと言うものではなく、どれもが混然一体の立場であることを理解して仕事を進めなければならないと考えています。

今回は「仏教」という言葉の意味について説明してきました。次回は仏教の特徴について説明します。

行政書士藤本浩司事務所

(注1)

よくお坊さんが皆さんの前で仏教に関して話すことを「説法」と言いますよね。「法を説く」という「法」は仏教の真理のことで、お釈迦さまが悟られ広められた教えの本質という意味です。古いインドのことばで「ダンマ」といいます。

(注2)

ご自身が真理を発見し苦から逃れることだけを目的とされたのではなく、当時の人々を苦から救うことを目的とされたということです。

「仏」は、古いインドの言葉「ブッダ」が中国で漢字化されて「仏陀」、その短縮形が「仏」です。当時のインドには何人も「ブッダ」がいました。「ブッダ」は「(真理を)覚った人」という意味の一般名詞で、当時のインドでは自分が覚った(悟った)あと、自身の生存欲さえなくしてそのまま自然死するということもあったと言います。ですので、お釈迦さまがその後45年間も衆生に伝道したということ自体が当時とすると稀有なことだと言えます。